公益社団法人 門真納税協会

50th Anniversary

門真納税協会は、2020年に創立50年という節目を迎えました。

 当協会は、大阪万博が開催された昭和45年に枚方納税協会から守口、門真、大東、四條畷の管内四市の納税協会として分離独立し、その翌年の昭和46年に社団法人として創立されて以来、50周年という記念すべき節目の年を迎えました。
 門真納税協会の発展を振り返り、これまでの納税協会を築いてこられた先人の方々のご尽力に感謝するとともに、更なる50年に向けて「納税協会指針」に基づき、活力・魅力ある明日の地域づくりを着実に進めていくことを明らかにするため、これからも様々な事業を実施して参ります。

創立50周年記念事業

 創立50周年記念誌・・・創立50周年を節目とし、記念誌「温故革新」を発刊いたしました。
 管内4市空撮・・・・・・各市(守口、門真、大東、四條畷)約3分のドローンによる動画がご覧になれます。
  ※それぞれ下記バナーより閲覧いただけます。

管内今昔ところどころ

  大阪に最も近い街、守口は昔から大坂と奈良を結ぶ守口街道の起点として、また大坂と京都を結ぶ京街道、そして江戸から大坂への宿駅を結ぶ東海道57次の道や淀川舟運など交通の要衝として栄えました。現代では国道1号線、南部の国道163号線、南北に通ずる中央環状線、近畿自動車道、現代の京街道・第二京阪道路、そして淀川を走る大阪モノレール、メトロ地下鉄、京阪電鉄沿線として、各都市を結ぶ交通の要衝、利便性の高さは守口の大きな魅力です。
 東海道57番目の宿駅、守口宿の町筋が、豊臣秀吉により大坂から京都伏見まで築かれた文禄堤の上に形成され、今も江戸時代からの名残として残っています。現在、京阪守口市駅前の本町に残る約720mの堤の道は、唯一現存する文禄堤としての名残りを留める貴重な歴史遺産で、今も周辺で暮らす人々、そして旧東海道を訪ね歩く人々に悠久の歴史を伝え続け息づいています。
 淀川沿いの佐太地区は、学問の神様、菅原道真公を祭る佐太天神宮を中心に、江戸時代には「間宿・佐太」として、陸・川を行き交う多くの旅人の休憩地として賑わいました。


      京阪電鉄、守口市駅前          淀川と豊里大橋           佐太天神宮本殿           守口宿の文禄堤

 門真の歴史は古く、「西三荘遺跡」の発掘調査で発見された縄文後期の土器から、約3500年前から人々が住んでいたことが明らかになりました、また「大和田遺跡」では弥生時代の土器が、「三ツ島遺跡」では巨大な「くり舟」も見つかっており、先史・古代からの地域の発達がうかがえます。
 「古事記」「日本書記」には、仁徳天皇が低湿地帯であったこの地方を淀川の氾濫から守るため「茨田堤」を渡来人に築かせたと記されており、宮野町に残る堤防跡が「茨田堤」の遺構と推定され、大阪府の史跡に指定されています。
 鎌倉・室町時代になると低湿地も徐々に開拓され、江戸時代には大阪に近い立地の重要性から市内の約8割以上が天領となり、直接江戸幕府の支配を受け豊かな水郷農村として灌漑集落が形成され、「段蔵」「バッタリ」などの人々の知恵と工夫が生み出されました。江戸時代後期には菜種や木綿、蓮根栽培が活発となり、地元農家で栽培されている「河内蓮根」は、今では都市化の波で少数の限られた生産数となりましたが、品質の良さで全国に知られています。
 現在、門真市内には京阪電鉄、地下鉄、大阪モノレールの各鉄道路線の他、市内中央部を東西に横断する国道163号線、西部や南部には大坂中央環状線や第二京阪道路が通っており、これらの優れた交通網は市の暮らしや産業の発展に大きな役割を果たしています。


    第二京阪道路の起点、門真JCT       門真市街地を流れる古川      パナソニックミュージアム        三島神社と薫蓋樟

 大東市は、平安時代より東高野街道など大阪と奈良を結ぶ交通の要衝として栄えてきました。「光は東方より」の古事に照らして名付けられた「大東」の地名の通り、豊かな自然に囲まれているほか、昔も今も歴史と文化が息づき、産業振興の新しい都市形態が進んでいます。
 全国に知られた野崎観音は、飯盛山のふもとにあり、地元では“観音さん”として親しまれています。毎年5月に盛大に行われる『無縁経法要』は、有縁無縁すべてのものに対し、感謝の読経を捧げる行事として江戸時代から「野崎詣り」の通称で知られており、期間中の境内には約300あまりのお店が立ち並び、訪れる人も約20万人といわれています。
 生駒山系の飯盛山は、戦国時代の戦略上の要衝として天下人・三好長慶が畿内統一を図った地として知られ、山頂からの大阪平野眺望は素晴らしく、今も市民に親しまれるハイキングコースとして、多くの人が訪れます。 この飯盛山麓一帯は古墳時代から発達し、堂山古墳では武器や農工具が多く出土しています。奈良越えの道として、龍間付近には今でも多くの民話や伝統、歴史的・文化的遺産が多く残っています。


     末広公園とJR住道駅周辺         自然豊かな飯盛山       飯盛山のふもとにある野崎観音     大東市役所にある三好長慶像

 生駒山地の西麓に広がる自然豊かな四條畷は、大阪市内から便利なアクセスでありながら、暮らしの中にどこか懐かしい自然が息づくまちです。また、奈良県と接し、市域の3分の2は生駒山地の一部である北生駒山地で、遥か旧石器時代から縄文・弥生時代の貴重な遺跡が出土しており、平安時代は荘園として南北に走る東高野街道に添う要衝地で栄えた地域です。
 南北朝時代には「四條畷の戦い」の舞台となり、南朝の将・楠正行と、北朝の高師直、師泰の激しい戦いが「太平記」に記されており、また楠正行一族24名全員がこの地で戦死したとも記されています。
 明治時代に入り南朝が正統な王朝とされるようになったことから、南朝を助けた楠木正成が神格化され、その息子である楠正行も「小楠公」として崇拝されるようになりました。今も多くの人に慕われる「忠孝両全」の鑑として楠木氏を祀る神社を設ける機運が高まり、明治23年飯盛山山麓に四條畷神社が創建されました。戦前は皇室の参拝や各地から多くの参拝者で賑わい、戦後も「楠公祭」として親しまれ、市民の発意による「四條畷楠公まつり」も時を越えて今に継承されています。
 「養生訓」で知られる江戸の旅人・貝原益軒は、四條畷を旅した際に田原の里に入った時の思いを、旅日記の南遊紀行の中で「まほろばの地 桃源郷」と記しています。
 また、風光明媚な佇まいと自然豊かな地の「府民の森 緑の文化園 むろいけ園地」は、室池散策、スポーツ、ハイキングの人々に親しまれています。


    大阪外環状線付近より臨む市街     楠正行公を祀る四條畷神社        緑の文化園、室池           下田原地区棚田  

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